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政権与党の力の源泉は税金の流用にある

結果より過程が大事というのが真理であり、とりわけ民主主義ではそうである。
過程とは討論であり、結果とは議決である。

それを弁えることなく、結果さえ己のものとなればよいのだとした権力=体制は「多数決こそ民主主義だ」といって結果(数)のみを得ようとし、そしてそれは物事の真偽の検討とは一切関わりのない、金こそが力なのだということを意味した。
こうして真理を装いながら己の利益のまま思い通りに物事が運べることになった。

真理を形骸化してしまい、なおかつその真理を装って洗脳を図っている例をいまひとつ。
衆議院には解散があるのは、少しでも世論の変化を敏感に反映するためだとされている、これが真理。
しかし実際には、政権与党にとって最も都合の良い時機に総選挙を行えるという、全くの政権与党(主として自民党)のための道具と化してしまっている。
政権与党は選挙時機を自由に設定できるという特権を生かし、時機を設定し、それに向けて着々と“地盤固め”を行う。
スキャンダルや不人気政策実施直後の逆風期には決して解散はせず、人の噂も75日とばかりに逆風がひととおり収まるまでじっと待ち、逆風があるとしても最も弱い瞬間を選んで選挙にうってでる。
結果として政権与党の議席数は“安定”する。

そしてなんといっても、政権与党は権力を握り行使しているのであり、そこには常に、逆風期だろうとなかろうと関係なく、砂糖に群がる蟻のように寄ってくる“有権者”の人々がいる。
こうしてここにも、
「選挙の投票は候補者の政策を評価して決める」
と言う真理は有名無実化され、有権者は政権与党候補者に票を与え、政権与党候補者はその見返りとして公共事業のバラ撒き等企業社会上の安心を有権者に与え、地方自治体には補助金の支給ということで首根っこを押さえ政権与党候補者が有利になるように“運動”させるという具合に、投票行為は完全な利益の取引、ギブアンドテイクと化しているのであり、政策理念などといった崇高なものが介在する余地は全くなく、また政権与党が与えるものの原資は、いずれにしろ権力から湧き出る金であり、さらにその根源を辿ると、別に政権与党支持者だけというわけではない分け隔てない全ての国民からの税金である。
つまりは一政党があらゆる国民からの税金を己の利益のためにかっぱらうという税金横領である。
これがあるからこそ政権与党政治家はやめられない。
2000.2.28
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正統性を有するものは隠蔽される

かねて私は、マスコミの流す(規定する)昭和史を見るにつけ、高度成長末期からバブル期にかけての期間を、何か物足りなく、何か欠落したような気にさせられてならなかった。


今私は、その期間に、いわゆる学生運動(本質的には革命運動)が起きていたことを知った。
それで、欠落感がスーッと解消していく思いがする。
それで合点がいくという気がする。


しかしそれは、私の独力による追求(それほど大袈裟なものでもないが)で初めて明らかになったことである。
今でも変わらず、革命運動はまるでなかったかの如き扱いを受けている。
なぜだろうか。


いうまでもなく、マスコミが自主規制しているのである。
間違っても直接的規制をするなどというバカなことはしない。


というと、革命運動というのは大袈裟であって、実際問題としてもともとそれほどの社会的ウェートがなかったのではないかという反論が想定されるから、あらかじめ釘を打っておこう。


立花隆が『中核vs革マル』で言っている通り、革命運動は当時紛れもなく、田中角栄問題と同等のウェートを有していたのである。
なのになぜ相応の報道がなされないのかという訝りの声がすでにあったのである。


60年安保に対する自民党の「革命前夜ではないか」という怯えも良い証拠である。
皇太子(当時)はこの時、自分もイラクの王族のように惨殺されるのではないかとブルブル震え、紅茶をこぼしたのである。


しかるに、マスコミの規定する昭和史、学校教育が規定している昭和史は、あたかもそのような動揺など微塵もなかったといわんばかりの体裁を繕っている。特別の関心でももって追わない限り、“実相”を知ることはできない。


このことは、藤子・F・不二雄の『ウルトラ・スーパー・デラックスマン(USD)』に通底する。
USDは正義のうえ、誰もかなわない力をもっている。
自衛隊も小型核ミサイルもかなわない。
権力はどうすることもできない。
で、最終的にどう対処したかというと、
「USDなるコートームケーな男は存在しない」
と公式声明を出し、その存在を一切無視するのである。
いないことにするのである。
で、新聞には彼を刺激しないよう計らって悪者の記事を出さないようにする。隠蔽する。


『USD』におけるマスコミの対応は、現実と酷似している。
ただ決定的に違うのは、現実の新左翼はUSDほどの力を有していない点である。
権力=体制から見れば、赤児の手をひねるくらいの“敵”である。
なのになぜ、恐れてその存在を隠蔽するのか。


いかに弱いとはいえ、正統性、レジティマシーを有しているからである。
少なくともUSDは正義を有している。
念を入れるに越したことはない、というわけである。
権力=体制は計らずも、新左翼の正統性を認めてしまうことになった。
ただ現実の局面では、権力=体制は圧倒的な物理的組織的パワーを有している。


歴史だけでなく、地理にしても社会主義の潮流の隠蔽は見られる。
それは、世界180国の“色分け”である。


資本主義国(たいてい自由主義国と狡称)、社会主義国の他大多数は、「非同盟諸国」である。
どちらでもない、というわけである。


うろ覚えだけでも、リビア、ラオス、カンボジア、イラク、旧南イエメン、ソマリアなどが社会主義政権といえる。
中南米の多くもそうだろう。
ミッテラン時代のフランス、スウェーデン、スペインもそうではないか。
イランも少なくとも資本主義とは敵対関係にある。
もっと勘繰れば、メキシコの94年1月の武装蜂起は不自然に過小報道されているのではないだろうか。
最近のペソ暴落・通貨危機はその武装蜂起が徐々に成就しつつある証拠なのではないか。


中国・旧ソ連といった大社会主義国の“公認”は、単にどうやってもごまかせないほど巨大だからではないのか。
北朝鮮、ベトナム、キューバらは、あまりにも政権が盤石で、資本主義に“好転”する見込みが見られないから渋々認めているに過ぎないのではないか。
そこからいくと反政府ゲリラの勢力が強い社会主義政権国は、ゲリラへの期待を込めて「社会主義国」と認めないのだろう。
ニカラグアなどがいい例だ。


「第三世界」の中に、社会主義を目指す国が少なからずあることを子供達に知らすことは、あたかも社会主義が世界の潮流であるかのような“誤解”をもたらす。
嘘をついてでもごまかしたいのだから、社会主義化が世界の趨勢であることは真実なのだろう。


そのようなごまかしが可能なのかというと、可能なのである。
実際に今、欧米といえば専らアメリカ・イギリスばかりに目を向けさせられ、ドイツ、フランス、イタリアの社会システムはほとんど一般レベルでは紹介されていない。


真実を知らせるというルールが、現体制を維持するために捩曲げられている。


資本主義陣営は未だになお、帝国主義時代そのままに(だから帝国主義の精神は今なお先進資本主義国の本質的属性なのである)版図を広げたがっている。
その領土を盲目的に増やしたいという野心は些かも衰えない。
それが今では、“世界市場の開拓”という言葉で語られる。


私にはそのためのウイルス注入が、「学校教育」の普及のように思われる。
美名であり、裏の企みがあるとはなかなか思われない。
少なくとも生(き)のままの人間の本性には現代的労働に耐えうる従順性は組み込まれていないのだろう。
「学校教育」を通じて、嫌なことでも黙って従う心性、エートスを培っていく。


私は物心つかないうちから知らないうちに、そうした隷従心性培養システム=学校に送り込まれた。
それは生のままの人間性を、高度産業社会に適応させる企みである。
物心がついた以上、今度こそはそうした“訓練センター”に繰り込まれまいと思う。


近く小学校で英語教育が始まるそうである。
既に算数の授業には計算機が取り入れられている、らしい。
中学・高校ではパソコン等コンピューターの導入が当たり前になっている。


「学校教育」という名の資本主義ウイルスの増殖亢進には、歯止めがかからない。
                      1995.5.17


権力=体制は大衆に“正統性の幻想”を抱かせている

「週刊少年ジャンプ」に「J'sサークル」というのがある。
読者参加型の、いじめを考えるページだ。
その第13回(第27号掲載)に、「B君の意見」が載っている。

いじめの原因を探ったものである。
いじめというものが、現代経済文明の要請に応じて、本来のままの人間を従順非生物ロボットに造り変える過程で必然的に生じる捩れ、歪みであるのは明らかで、要するによってきたる所以が、権力=体制およびその意を体するマスコミは必死に逸らそうとしているが、有り体にいって“社会のありさま”にあるのは明々白々なのである。
あまりに基本的過ぎて論証するのも面倒臭いほどだが、もちろんそんな曖昧にやり過ごしてしまっていいようなテーマではなく、後に機会を設けてみっちりと構造分析をやるつもりだから、ここではその結論だけを無条件に取り立てておくことにしよう。

その明々白々たる揺ぎないいじめへの見解から照らしても、このB君の斬り口は至極まっとうなものである。
いや14歳の素直な眼で見ているだけに、原因を踏まえた解決策の提示は凡百のなぜか遠慮した提言よりもより直接的である。
すなわち彼は次のように言う。

「だから、イジメをなくすには現在の社会を変えるしかない! 文部省が音頭をとって教育方針を完全に改めるくらいしかないのでは…。」

「現在の社会を変えるしかない!」という訴えは、とりも直さず革命の宣言に他ならない。
虚心坦懐に物事を見るならば、この言葉しか出てきようがないのである。
しかるに大勢から一向にこの言葉が発せられないのは(私にいわせれば封殺されているのは=さらに深層的にいうなら封殺されているという自覚もなしに封殺されているのは)、虚心坦懐に物事を見ていないからである。

権力=体制とマスコミの逸し・目くらまし工作にすっかり乗ってしまっているのが、B君に反対意見を唱える以下の両者ということになる。

「本当にイジメって、今の社会や大人たちが悪いから起きているんでしょうか。私たちの責任って全くないの?」(徳島県・B子さん14歳)

「むしろイジメから逃げているのは私たちかも。何か問題が生じたとき、すぐに人のせいにするのは感心できないなぁ。」(徳島県・D子さん15歳)

見事に洗脳されたとしかいいようがない。
だが責任は彼女らにあるのではない。
国家をあげて、社会総ぐるみで系統的に洗脳をやっている時には、誰もそれが異常だとは声が上げられないのである。

だいたいこの2つの「反論」は論点を取り違えている。
誰も、
「いじめの原因は社会が悪いのだ、子供は悪くない」
とはいっていない。
「いじめの原因、よってきたる所以は社会すなわち大人社会であって、その病原菌が子供社会に流れ込んできている」
という問題のありかの話をしている。
どっちが悪くてどっちが良いという話をしているのではない。

どっかから飛んできたボールが当ってガラスが割れた。
「このボールはどっから飛んできたのか」
という話をしているのであって、
「私達はいかに警戒を怠ったか」
という話をしているのではない。
それはこの次の問題である。
突然ガラスを割られた家がまずするのは、
「このボールはどっから飛んできたのか」
の推理に決まっているではないか。

つまり
「いじめの原因は社会だ」
としか言っていないのを、勝手に
「いじめの原因は社会だ、したがって子供は悪くない」
と言っていることに膨らませて、その膨らませた部分に対して反論を加えているのである。
相手が言いもしていないことを言ったことにして反論するというのは詭弁の常套手段である。

B君は、病原菌が社会からやってきたのだと、それだけをいっている。
病原菌に犯されるのは人間であるから、病原菌に犯された人間を悪いとするなら、大人であろうと子供であろうと等しく悪いのは解りきったことだ。
すなわち病原菌に犯された子供も悪いということはすでにB君の論旨に入っていることであって、それに対して
「すぐに人のせいにするのは感心できないなぁ」
などという「反論」をもつこと自体がいかにナンセンスかはこれで知れるだろう。

さて、「B君の意見」で深刻なのは、実は引用の後段
「文部省が音頭をとって教育方針を完全に改めるくらいしかないのでは…。」
という部分である。
「完全に改める」というのは革命に他ならぬから、B君は文部省に革命をやってくれというのである。

これはB君の認識不足にはあたらない。
なんといってもB君は14歳で、私もその頃はまだ同じようなことを書いていた。
また誤解なきよう申しておけば、B君の洞察は14歳にしてはむしろ鋭い方に属すのである。
それが引用しなかった部分からは見てとれる。

そして何よりもこうした認識は、まだ社会の仕組みをよく知らないB君あるいは中学生一般に留まるのではなく、世の大人、一般大衆の認識レベルと些かも違わないのである。
悲劇が救い難く大きくなる理由は、ここにある。

いうまでもなく、文部省は立派な体制の一機構であるから、絶対に革命はやらない。
警察が革命をやらないのと同じである。

ではなぜ大衆一般はこんな見当違いな妄念を抱くかというと、国家権力というものを何か清廉潔白で正統なものだと信じ込んでしまっているからである。
またそうあらばこそ、せっせと素直に税金を「納め」たりするのであろう。

ときに権力の悪、犯罪、不祥事が露顕することがある。
しかし大衆はそれをうっかりした手違い、ミス、いたらなさと寛容にも判断し、隠蔽できなかった本質が漏れ出たものだとはつゆ思わない。
どこをどう見れば神奈川県警が県警ぐるみで行った共産党盗聴事件がうっかりミスになるのか。

また露顕したにしても、その場合には公平で厳正な法手続きによってしかるべき刑罰が加えられるとここでも寛容な判断を示す。
しかし実際には、先の神奈川県警はついぞ1人たりとも起訴されなかったし、金丸は検察の再三に渡る呼び出しを無視した(一般人ならこの時点で逮捕)にも関わらず20万の罰金と上申書でお咎めなしだったし、田中角栄はついぞ収監されることはなかった。

また権力の方もうまくしたもので、たまに気まぐれで“庶民の側に立った”裁定(例えば道路公害訴訟の住民側全面勝訴など)を下し、これを最大限に利用し大々的にアピールするので大衆も
「おお、権力も公平にやっとるのだな」
とのイメージを植えつけられることになる。

ときに権力が大衆に負担をおっかぶせる政策を強行することがある。
まず第一に洗脳宣伝をして不服感を幾ばくかでも取り除こうとするのだが(税制改革では文字通りの“朝三暮四”が行われた)、それでも不服感は残る。
しかしここでも大衆は寛容な理解を示し、洗脳にものって、
「権力は精一杯切り詰めた上で、どうしようもない部分を仕方なく負担転嫁しているのだな、そんなら協力してやるか」
とおとなしく従うのである。
タクシー料金値上げのたびに「運転手の待遇改善」が理由とされるが、よく知られる通り運転手の待遇はちっとも改善される気配がない。
新聞料金値上げのたびに新聞社は
「可能な限りの経費削減に努めてまいりましたがそれも限界に……」
と言い訳するが、平成不況に入るやあれよあれよと人員削減、設備縮小をやりだした。
してみればこれまで繰り返してきた「経費削減努力も限界」というのは何だったのか。

とにかくこれほどまで大衆が権力に対して寛容、寛容、寛容の一辺倒なのは、権力に対して“正統性の幻想”を抱いているからの一言に尽きる。

今度のオウム事件でも、それが残した最大の教訓は、
「国家がやれば合法でも小悪党がやればお縄」
ということであった。
オウムが家庭から子供を引き離せば「拉致監禁」だが、権力がオウムから子供を引き離せば「保護」になる。
国家が銃を造り軍隊を創設しても何でもないが、オウムが銃を造れば「密造」、軍隊を創設すれば「武装化」となる。
国家が「閣議」と称せば重々しいが、オウムが「閣議」といえば笑い草である。
国家が「自治省」や「防衛庁」を作るのは自然だが、オウムが作れば「国家ごっこ」になる。
国家が総ぐるみで洗脳をやるのは「教育」と呼び慣わされるが、オウムがやればそのまま「洗脳」である。
国家が偽札を作れば「貨幣」として認知される(今我々が使っている紙幣は本質的には偽札である)が、それ以外だと「偽札犯」としてひっくくられる。
これは
「1人殺せば犯罪者だが100万人殺せば英雄」
というのと全く同じ理屈である。

国家が何か正直で清廉潔白なものだというのは最も壮大な幻想で、実相はその正反対、最も邪悪で腹黒く狡智にたけている強盗集団こそが国家である。
小悪党は折悪しく、自分らが活動を始めた頃にはすでに大ボスが権力というワルの最高位にデーンと居座って既得権益をほしいままにしていたから、自分達は駆逐される側に追いやられたのである。

現代の権力は特徴的に、大衆を“正統性の幻想”で虜にするため、間接的巧妙な手段を駆使する。
その一環として、正統性を偽装するために小悪党を締め上げるということをする。
だから小悪党は、権力に取り入らない限り決して増長できない。

国家権力は、正統性を有しているように見せかけているだけなのである。
自分達の支配に万全を期すための道具が「法律」である。
具体的な武力装置が「軍事力」と本物のヤクザ、治安装置が「警察」である。
民主主義とかいって公正な社会ですよという目くらましをするのが「議会政治」もしくは「政治」そのものである。
そして最も肝要だと思われる、そういったことを奇異に感じさせず正当なことだと思い込ませる洗脳装置が「教育」である。
そしてそうした「体制」にいざるを得なくさせるのが「家族」という体制の末端機構や「社会保険」という老後保障である。
大衆を本来の目的として奴隷的に駆り出す場が「企業」である……という具合に、この社会の主たる事象は全て権力の思惑として捉えることができる。
その中に、清廉潔白な動機は1つたりともない。

権力の目的は権力にある。
権力を保ち続けることにある。
したがって、自ら権力を投げ出したり革命を招来するということは、世の中で一番あり得ないことなのである。
最大の眼目こそが、革命の抑止なのである。

人々が洗脳を振り切って、また交換条件に与えられている物質的裕福さの呪縛から逃れて、こうした権力の真相を見出さないことには、どうしようもない。

私は叫び続けていくつもりである。
                        1995.7.24

権力=体制は性欲を利用して支配する

テレビで顔の売れた“女性”キャスター、エッセイストらが週刊誌でエッセイなどの連載ページを受け持つようになった際、そのページには見出しとともに顔写真を添えるのが必須となる。

“女”のエッセイは、こんなに“いい女”の肉声・肉感・肉息として読まれる。
書き手が第一、作品は二の次なのである。
もちろんこんなことは、誰も口に出して言わない。
これと同じなのが、“アイドル”の歌、もっといえば、そのよってきたる基となった芸者の芸である。

ひとりのきれいな、美しい、かわいい、原則的に若い女がいる。
この女をじっくりと観賞したい、させたい、目的はそれのみである。
しかしただぼうっと突っ立たせるだけでは、あまりに露骨だし、がない。
そこで歌でも歌わせることにした。
これがアイドルの誕生である。

アイドル・女優は一種の公娼である。
支配者は、共同体を破壊し、文明的“全国ネット”を形成するに到って、そのメリットの1つとして、共同体圏外にもこんなにいい女がいるのだぞと晒しものにし、見目形を拝ませるということを、大々的に売り物にしてきた。
男の最終目標は性交なのだが、何しろ“全国ネット”という性質上、そこまでは無理である。
またそれなりの対価を払わない者に、おいそれと性の充足を遂げさすわけにはいかない。
もちろん、“全国ネット”的美女を、それなりの対価を負担している人々でモノにしている人もいらっしゃるのだろうが。
で、ホンモノの性交の代償行為として、女優には映画やドラマで男に抱きつかせ、キスさせ、ベッドシーンをさせ、アイドルには「好きよ好きなのよあなた」と歌わせる。
公娼であることの一番の証明がこの「あなた」なのであり、“不特定多数”を巧妙に示しているのである。
「巧妙に」というのは、本来「あなた」という呼称は第二人称であって、それを不特定多数向けに使うというこれはまた巧妙としか言いようのないやり口を思いついたからである。

ズバリと直接的に、映画や“写真集”などで裸体を晒すことも稀ではない。
最もポピュラーなのが“グラビア”の水着姿である。
最近では現代経済文明の欲望造出の行き詰まりとも並んで、ヘアヌードなどとその方面の“過激度”も増しつつある。

もっともこの類の指摘なら、フェミニストどもがさんざやってきているのだろうと推測される。

まあ、あらためていうと、人類が文明を成す限り、それは人為的・人工的なもので自然にはそんなものをやっていく原動力などないのだから、別の原動力を無理やりこさえ上げねばならなくなる。
その際オスの(なぜオスかというと文明の実働面を担う(担わされる)のはオスだからである。というとフェミニストどもはすぐ「優遇」といって騒ぐが、何のことはない、馬車馬にされるだけである)性への執着を、あたかも水力や火力、風力、地熱を電気エネルギーに変化させるようにエネルギー転化させると非常に有効なので、それを利用・活用しない手はないと、支配者は思うがままに利用するというわけである。
だから文明をやめない限り、この馬鹿げた“女性の商品化”、“女性蔑視”はなくならない。

性欲利用は支配の現代的な原理である。
                        1995.9.10

洗脳に直結した映像メディアに自由を与えるわけがない

イギリスで、市民団体が、フランスの核実験再開に反対するCMを制作した。
スナイパーが、シラク大統領を狙撃すると見せかけておいて、「一番効果があるのは……」といってテーブルのワインを撃つという極めて挑発的なものである。
ここでも、最大効果は不買運動という一見素朴な経済的ダメージを与えることにあるという前項での指摘が如実に踏襲されているが、それが主題ではない。

つまりこれで、イギリスのジャーナリズムは、少なくとも日本のマスコミよりは権力からの独立を保っていることが解るのである。

このCMは、決して要人テロを推奨しているのではないが、示唆していると邪推されることは充分にあり得る。
特に映像だから、インパクトが大きい。
だからこそ、権力による統制もことのほか厳しいのであるが。

日本だったら、すぐさま権力のチェックが入り、巧妙なクレームがつけられ、この種のCM映像が日の目を見ることは絶対になかったと断言できる。
まず、
「このような映像は、要人テロを示唆しており、穏やかではない。これを流すのは、いかがなものか」
と実質的なストップがかかる。
するとそれを受けたマスコミは、はあそうですかとおとなしく引き下がり、自主規制として中止する。
「報道の自由」が保証されている自由な国という体面上、直接圧力をかけるなどというバカなことはしない。
圧力に抗して、辞職と引き換えにこのような圧力があったと暴露した映画監督もいたが、いちいちその細かな事実関係を示さなくては、まだ信じられませんか。
まだ
「民主主義に立つ自由な政府がそんなことをするとは信じられない」
ですか。
教科書検定にしたって、RCサクセションの“反原発ロック”発売中止にしたってそうだ。
そうそう、こないだ新聞で面白い記事を読みましたよ。
産廃施設反対派に資金供与した町長がいて、「行政の中立性」が
問題になっているとか。
へえ、行政って中立だったんですねえ。

まあ、それよりも一番の問題は、
「こんな映像は好ましくないから控えてほしい」
という日本政府の言い分を、恬然として
「お説ごもっともでございます」
と納得して受領してしまう日本国民の方だろう。
だから私は洗脳されているというのである。
                        1995.8.27
プロフィール

Author:nobody515
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